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水野博之の「イノベーション7か条」

■第1回■
企業はビークル(乗り物)だ

【2006.10.04】

写真 私が松下電器に就職したのは1952年である。
親父が原爆の後遺症で体調が悪いこともあって、京大理学部の物理の3回生の時、担任の内田先生に就職したいと言ったら
「水野君、大学は就職斡旋所ではありません。まして物理なんて、一生学問するためにはいるところです。湯川(秀樹)君を見なさい」と叱られた。
しかし、奨学金では飯が食えない。それでも先生から松下の募集を紹介された。
「あまり聞いたことない会社だけどね。ナショナルという電機製品を作っている会社らしいな」
本社のある門真に行ったら、レンコンの池がぽつんぽつんとあってバラックの工場が建っていた。こりゃひどいと思って、勝手なことを言って帰って、ダメだと思っていたら合格。
当時の花形産業は「繊維」で、自動車や電機は存続が危ぶまれていた時代だ。繊維産業は「ガチャ万景気」といわれ、「ガチャン」と機械が一回りすれば1万円儲かる、といわれた時代だ。
松下電機は初任給が月9000円で、繊維産業は1万8000円。
内田先生に「繊維はありませんか」と聞いたら「物理と繊維は何の関係もないだろう」ということで松下に行くことになった。

松下で配属されたのは京都の真空管工場。当時、真空管はハイテク中のハイテクで、トランジスタ(1948年)はまだ黎明期だった。テレビは出ていず、ラジオが全盛期だ。一番の主力製品は、5球スーパーラジオで、5本の真空管が入っている。こんな時期だから真空管は売れに売れた。
しかし、この商品は難物だった。
真空管の中心にあるカソードから真空中に電子を放出するのだが、しばしば故障する。「自然は真空を嫌う」で、真空管内部の真空度が落ちるとたちまち電子が劣化する。当時のエレクトロニクスの最大、最新のテーマの一つは「カソード」に集中していた。
このためには、カソード断面の「金属-酸化物-真空」という三元系の物理を解かなければならない。皆、ここで行き詰まる。私もまた行き詰まってしまった。電子伝導の方程式はそれなりに組み立てられるのだが、それを解く突破口が見つからない。そこで、正面から攻めるのは断念して、側面から攻めることにした。
昔から数学者はいろいろな形の微分方程式を解くことに熱中している。これらの文献から自分の方程式によく似たものを探してこれを換骨奪胎しようというのである。しばらく図書館通いしたすえに「熱伝導の方程式」というのを見つけて、それを応用させてもらった。

当時、GHQ(連合国総司令部)の図書館が京都にあって、外国の文献も見ていたので、アメリカの『ジャーナル・オブ・アプライド・フィジックス』に論文を送った。研究を始めて3年目ぐらいの時だ。これが、松下の提携先のフィリップの目にとまり、松下幸之助(社長)のところに「詳しい内容を知らせてくれ」といってきた。これで私はいっぺんに有名になった。

おかげで松下幸之助にもかわいがってもらい、最後まで松下に勤めた。
しかし、振り返って、会社というのはビークル(乗り物)だと思う。自分は、会社に奉仕するためにあるのじゃなく、自分を磨くために会社はある。
大企業に入って、自分の好きな、一生の仕事とするに足るものが見つかればよい。会社も自分もそれで成長する。
しかし、見つからず、気に入らないなら乗り換えるしかない。
ずいぶん薄情、不義理に聞こえるかもしれないが、明治時代以降の丁稚徒弟型の年功序列、終身雇用の仕組みが急激に変わりつつある。
シリコンバレー流にいえば「最初の会社は三年で辞めよ。それはトレーニングの場であるから。トレーニングが終わってはじめて君は一人前になれるのだ」

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■水野博之 プロフィール
1929年広島市生まれ。京都大学理学部物理学科卒業、松下電器産業副社長(技術担当)としてデジタル家電、モバイル機器など今日のIT時代の基礎となる技術、製品開発をリードした。スタンフォード大学顧問教授、高知工科大学副学長を経て現在、大阪電気通信大学副理事長、立命館大学経営学部客員教授、財団法人広島県産業科学技術研究所所長を兼任。理学博士。アメリカ電気電子技術者協会(IEEE)名誉会員。またコナミ株式会社、株式会社メガチップの社外取締役。
著書に『森を出たサルはどこへ行くのか---人生の思索ノート』『創造のヒント』『異端のすすめ』『先験的構想力の時代』『構想力のための11章』など多数

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