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水野博之の「イノベーション7か条」

■第2回■
製造マシン国家・日本の失敗

【2006.10.12】

写真 80年代後半、日米の半導体摩擦の最中のころである。
日本は半導体メモリをアメリカに安くダンピング輸出し、アメリカの半導体をさっぱり買わないと大もめに揉めていた。
1989年、私は日米半導体協議の日本代表としてインテルの創始者ロバート・ノイスやLSIロジックのコリガンと会ってお互いの主張をぶつけ合っていた。ノイスは協議会の最中に自宅のプールで急死してしまうが、そのときは会議が原因の憤死だと思うほど緊迫した大激論が続いていた。実際、インテルはDRAMから撤退した時期だ。
そのやりとりのなかでノイスは、
「おまえも技術者なら分かるだろ。ブレナー特許という集積回路をつくる基本特許がある。これを1960年代中頃、日本人が、よこせ、よこせと言ってきた。わしはなあ、日本の片田舎でこんなもんができるか、と思って渡したんじゃ。日本がこれほどの半導体王国になろうとは、私は露ほども思わなんだ。これがわが生涯における最大の経営的失敗だ。いま、日本がアメリカにアンフェアーだと言うのなら、そこまで遡れ。おまえは日本がおかしいとは思わんか」
私も「たしかに日本はおかしいなぁ」

このノイスの言葉に日本の80年代成功の秘密が余すことなく語られている。
西洋諸国は長い間、東洋の小国日本に対しては「知的財産」に関して極めて寛容であった。日本はこの外国の「知的財産」と、安くて質の良い労働力を使って、世界に類を見ない「製造マシン国家」をつくりあげた。それが当時の半導体産業に象徴される。
この時代の技術戦略は「キャッチアップ戦略」、「後期参入型戦略」と呼ばれる。実に効率の良いモデルだった。学生たちは「キャッチアップの先兵」として養成され、エンジニアにとって目の前にやることが山のようにあって、忙しくこき使われる時代だった。キャッチアップというのは、スーパーマーケットで目の前の品物を選択するようなものである。これがかつて成功した日本のMOTだ。

しかし、いまノイスが生きていたら、にこにこしているだろう。
半導体集積回路の目標は、人間の知能を代行することである。人間の頭脳は大きく分けて「記憶」と「計算・判断」の二つがある。したがって集積回路も、メモリー(記憶回路)とロジック(論理回路)に分けることができる。
日本やアジア各国が指向した事業展開は、トランジスタサイズを小さくしてメモリ密度を上げる「高密度化」(バーティカル)戦略である。
一方、アメリカはトランジスタ密度を上げるより、マイクロプロセッサーに代表される組み合わせの工夫でいろいろな機能を実現しようする「システム化」(ホリゾンタル)戦略に向かった。
結果は歴然としている。アメリカの半導体産業はわが世の春を謳歌し、インテルは世界一のメーカーとなった。反対に日本のメーカーはどうなったか。巨大な設備投資の悪夢に悩まされながら、韓国に追い上げられ、いまや後塵を拝している。

当時(1980年代後半)日本の風潮は、政府民間をあげて「メモリに非ずば人に非ず」の空気だった。そのなかで松下電器は半導体をやりながら、なぜメモリにもっと力を入れないのかと、内外から私に批判が集中したものだ。そのとき、私は繊維産業の隆盛と衰退の例を引いて説いたのだが、誰も耳を傾けなかった。松下電器があの悪夢のようなメモリ・ビジネスの大波乱の影響を最小限に食い止められたのは、私の判断が正しかったことを示している。半導体で2000億、3000億円の赤字を出した企業がいくつも出たのだから。だからといって誰も過去に帰って褒めてくれるわけではないが。

キャッチアップ型の技術戦略の時代は終わった。21世紀の日本再生には新しいモデルが必要だということは誰でもいうことだ。次回はシュンペーターのことでも少し考えてみよう。

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