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内永ゆか子の「頑張れ!女性エンジニア」

■第1回■
東大物理学科の頃

【2007.03.06】

写真 物理はきれいだ

私の父親は技術者で、新幹線のプロジェクトに関わったことを生涯誇りに思っていました。そんな父の影響もあって理科系に関心が向いたのと、「理科系が好きなのは優秀な子」といった家庭の雰囲気の中で育ったことで、理科系に進むことになります。とくに、高校時代(白鴎高校)物理の唐木先生に出あって、「物理は面白い」と思ったことが物理をやるきっかけになっています。

物理はきれいだなと思います。世の中の現象がなぜそうなるかを、解き明かし、結果を明快に説明できるからです。

浪人して、1967年に東大に入り物理学科に進みました。大学のクラスは1学科、44人。その年は女性が豊作と言われていて、3人いました。ひとつ上の学年はいなかったですね。私は学科の中でも「へんな子」だったようです。東大ではじめてミニスカートをはいているなんて言われたこともあります。

私が駒場にいる時に、ちょうど東大紛争が起きて、デモや集会には行きました。安田講堂に立てこもった人の中には知人もいました。

駒場から本郷に行く時に、東大は1年間入試が中止され、駒場に1年間滞留したんです。留年というのをやりました。東大紛争が終わってから、本郷の物理学科に入って、正確に言うと1年半で卒業させられましたとなりました。2年間やっていないです。物理では好きですし卒業証書をも貰っていますけど、劣等生でしたから、物理のことは聞かないで下さいって言っています。本当に駆け足で卒業しましたね。だからあんまり大学のことは覚えていません。ただ、よく勉強しましたよ。入学試験を受けるときも、結構勉強しましたけどが、駒場の時は勉強しなくて、特に本郷に行ってからは、本当によく勉強しましたね。「入学試験よりも、今の方が勉強している」って学科の仲間もみんな言います。みんなよく勉強していました、本当に。だから、私も自分なりに勉強しましたけど、他の人に較べると圧倒的に違うんです。

有馬朗人先生(後に東大総長・文部大臣)が私たちの先生でした。今でも覚えていますけれども、先生は学期の試験の時に、教室にトコトコトコって入ってきて、黒板にチャッチャッチャッと問題を書くんですよ。何の問題だったかは、すっかり忘れましたけど、問題を書いて「明日の朝までに、僕の教務室に入れといて」、「何を読んでもいいよ。図書館に行ってもいいよ。でもまあ、みんなであんまりディスカッションしないで、自分で考えたら?」って言って帰っちゃうんです。

あまり議論しないように、ということですから、図書館行ったりして一人で考えて、翌朝に答案用紙を先生の教務室に届けました。

後になって、有馬先生に「なぜああいう試験をなさったのですか?」と聞いたら、「うん。あれは僕が考えていた問題だったんだよ。だから、ついでにみんなにも考えて貰おうと思って」なんておっしゃるんです。すごくユニークでしたね。小柴昌俊先生(2002年ニュートリノの観測でノーベル賞受賞)は怖かったですよ。実験の先生です。私は、実験は男子生徒に任せっきりで、あまり真面目にやりませんでしたね。


物理では大成できないとあきらめました

東大の物理学科では、学部卒で就職する人はあまりいなく、ほとんど修士、博士課程に進みます。私は理論物理をやっていましたから、周りの人はいずれはノーベル賞をと夢みるような雰囲気でした。

学部卒で就職しようと決心したのは、大学の時にはまったく勉強しないし、マスターに行っても、ドクターに行っても、とても物理学者としては大成しないということが、非常に明確にわかっていたからです。プラズマを理論物理でやっていたのですが、専攻というほどはやってなかったですね。学部では、卒業実験と卒業研修がありましたが、卒業論文は書かないんですね。「なぜ論文書かないんですか」って聞いたのですが、「学部出たくらいで書けるわけないだろう」って言われて、それは正しいなと思いました。

何を専門するにしても、うちの物理の場合にはオールラウンド全部まず勉強しましょうと。その中で自分の専攻を決めて、そこからマスターに行って専攻に取り組んでいきます。ですから、学部卒の私は何を専攻したかと聞かれるとちょっと困ってしまいます。

当時は本当に錚々たる先生がたくさんいらして、学部長は統計力学の久保亮五先生でした。他にも、上村先生ですとか、量子力学の高橋先生など、本当に有名な先生ばかりいらしたのです。しかし1年半で、物理学一般をたたき込まれて、それがわかったか、わからないかの状態で、ぼんと世の中に出てしまいましたからね、私は。物理学部では、95%以上がマスターに進んでいました。

私のように、途中で学部でやめてしまう人は少なくて、助手の先生とはこんな話もしました。「内永さん、就職するんだって?」「はい、そうです」「あ、それはいいかもね。ところで、給料いくら貰うの?」って言うから「いくらいくらです」と言うと「ああ、いいね。俺よりいいよね」って。私はマスターまで行っていた方が良かったかどうかというのは、よくわかりません。当時は、学部で出るのが良いかな、と思いましたけど。

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■内永ゆか子 プロフィール
日本IBM取締役専務執行役員(開発製造担当)。1947年香川県生まれ。1971年東京大学理学部物理学科卒業。同年日本IBM入社。1995年取締役アジア・パシフィック・プロダクツ担当。2000年常務取締役 ソフトウエア開発研究所長。2004年より現職。1993年米国ウィメン・イン・テクノロジー・インターナショナル(WITI)殿堂入り。2006年米国女性エンジニア協会(SWE)アップロード・モビリティー賞受賞。総理府男女共同参画審議会委員など。著書に『部下を好きになってください』(勁草書房)

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