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内永ゆか子の「頑張れ!女性エンジニア」

■第2回■
物理・数学出身者に期待する

【2007.03.13】

写真 コンセプトに弱い日本人

私は、物理や数学を学ぶ学生さんに、とても期待しています。

なぜかと言うと、日本のITにおけるR&Dの弱みは、新しい概念とかコンセプトとかを最初にクリエイトする力が足りないことだ、と考えているからです。
物理の世界では、日本からいろんな新しい発見がされていますけれども、ITの世界ではとても弱い。

ITの世界では、新しいプログラミングのスキームにしても、オブジェクトにしても、またIBMが言い出したe-ビジネスやオンデマンド・ビジネスですとか、いろんなキーワーが出てきます。そして、そのたびごとに従来のコンセプトがばさっと捨てられて、新しいコンセプトが出てきます。しかし、このようなコンセプトが日本から出た試しがありません。
私たち日本IBMの開発エンジニアは、世界中の開発エンジニアと競争しています。社外とはもちろん、社内でも競争します。IBMの開発研究所や基礎研究所は、米国だけでなくインドや中国など世界中に拠点を持っています。それらは社内でお互いに助け合うこともしますが、基本的には競争なんですね。強いところが残るということになります。そんな競争の中で、やはり日本人の研究者はコンセプトが弱いと感じています。

日本人は実際に、モノをインプリメンテーションするのは上手なんです。でも、なぜかコンセプトを作り出るのは苦手です。日本人にも、コンセプト作りが得意な人もいますが、よく見ると、そういった人は物理・数学出身者です。物理・数学出身者は、すべてゼロから思考を始めるわけです。ゼロから始まって、その中から世の中がどうなっているか、宇宙の原理はどうなっているか、非常に漠としたことであっても、新しい概念、新しいコンセプトをつねに追いかけている。とくに、理論物理というのはそうですね。新しいアイデアや考え方がないことには、なかなかできません。

もっと言うと、理論物理がそうですが、他人が検証したことを理解する時に、自分の頭の中でその概念を作らなければいけないんです。たとえばコップということを考えたこともない人が、コップってどういうものかというのを、言葉と数式で表すわけです。数式で表したものに対して、頭の中で現象としてとらえるわけです。こういうことを、物理屋さんというのは、しょっちゅう考えています。数学もそうですね。このようなトレーニングができている人に、私は期待しているのです。

その部分がもっと強くなると、日本のITなり、日本の新しいイノベーションは、もっと進むと思います。ところが今は、コップを見たり手にしたりして、いかにこのコップを良く作るか、安く作るか、というところに考えが行ってしまっています。これでは、どんなに作り方がうまくても、結局はコスト競争に入ることになります。そうすると、あとは人件費の安い国で作ればいい、という話になる。

特許などで、ある程度のプロテクションはできますけれども、それには限度があるわけです。コップだという概念を数式で表して、しかもそれを初めて考えた、ということがもしできたとしたら、もっと違うことがいっぱいできるわけです。これこそが、本当のハイバリューなわけです。この概念で勝負しないと、ITの世界では生きていけません。

物理・数学の人は、頭の中に概念をたたき込むというか、自分で作るというトレーニングができているので、新しいことに対して適応力があります。でも、機械はできても電気は苦手とか、実験をしている人がいけないというのではありませんが、どちらかと言うと、理論系の人の方がトレーニングができていると思います。

とくに、ソフトウエアに関しては、こういった考え方のできる人の方が良いです。ソフトウエアは、形に見えません。コーディングを全部見ても、全体のスキームを頭に入れるのは、ものすごく難しいわけです。出てきたアウトプットを見ても、それはユーザーインターフェイスを見ているだけであって、ソフトウエアそのものがどう作られているかという話とは別ですよね。オブジェクト指向、Java、SOAのような概念を作っていこうとすると、コンセプトとか概念ということに慣れている人の方が適しているように思います。

日本人が、プログラミングのテクノロジーではなくて画期的なソフトウエアの概念を作ったという話は、私はあまり聞いたことがありません。たとえば、インドの人は「ゼロ」という概念を作りましたが、こういったコンセプトが生まれる国の人というのは、強いですね。


鎖国が作り出した日本人

少し違った観点から考えてみます。日本人は、森羅万象の自然と自分を一体のものと考えているのではないでしょうか。だから、世の中や自然を、自分に向かい合うものとして、客観的に見ることはしないのだと思います。

日本人の哲学観とか倫理観とか世界観の基底には、人間は自然の一部であるという考え方がある。ところが、ヨーロッパの人をはじめ日本以外の人たちというのは、自分に対するものとして世界や自然を客観視します。

これは何故だろうかと、ずっと考えてきたのです。本当に日本人は昔からそうだったのかと考えていました。そして、もしかしたら、鎖国が現在の日本人に強い影響を与えているのではないか、と思い当たりました。

鎖国をしている頃は、日本と他の国ということを、あまり考えなかったと思う。日本の国=世界ですよね。出島があっても、それは非常に限られたところで、ほとんどは自分の国=世界で、中国があったり、他の国があったり、その国と自分たちがどう関係かという感覚がほとんどなかったのではないでしょうか。「自分と他」という感覚がものすごく薄い。それが三百年も続いたら、常に自分は全体の中の一部であって、自分は何かと相対するものだ、という感覚というのは出てこないと思うんです。

欧米は、他国から攻められたり攻めたり、滅ぼしたり滅ぼされたり、常に自分の国と他の国があって、文化も言葉も違う国が攻めてくる歴史でした。だから、「自分」対「他者」という考え方がすごく強い。

三百年の鎖国というのは、日本独特の、微に、細に、中に中にと入っていく、あの良さを作ったかも知れない。このことは、外に対して自分を出していく、他に対して自分をアピールするということを、ものすごく削り取ったと思います。仮に、織田信長がずっと生きていて鎖国をしなかったら、日本人というのは、もっと欧米的なマインドになったと思いますね。ものごとをロジカルに考えて、論理と論理でもって戦わせていたら、自分と他というものが出てくるでしょうけれど、あの三百年ではあまり無かったでしょうね。

新井白石のように、オランダ人や外国人と接触していた一部の学者を、幕府が良しとしたかというと、必ずしもそうではないでしょうね。そこに、日本人の良さもあるし、「弱み」もあるのではないかな、と私は個人的にはそう思っています。反論はいっぱいあるでしょうけれども。何にも例証がなくて、自分の感覚だけで言っていますから、あまり物理的ではないですけれど。

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