1987年2月発行
●取材協力・訳/伊庭斉志、園吉康夫
●協力/伊藤正男(東大)
●写真/英 隆
脳の背後には、巨大細胞、巨大繊維、 巨大シナプスなどの全体的作用があります。 分泌物質は局所的にではなく、 モジュール全体に作用するのです。 AIJ−−−大脳生理学や神経生理学に、あなたはいろいろな意味で大きく貢献してきたと思うのですが、まず第一に、脳の研究をはじめたきっかけについてお聞かせください。なぜ脳に興味を持たれるようになったのでしょうか。 エックルス−−−17歳の頃、私は自分の存在や経験について興味を持ちました。私は医学生で科学に専心していました。そして私は他人に比べて、自分独特の存在というものに関心を持っていました。問題は我々が単なる物質 ではなくて、想像力があり思考を行ない、理想を持ち、楽しみを持ち、喜び、願いを持つ………これらすべての精神の世界についてが問題でした。しかも私は人々が脳について話はするが、その世界を認知できていないの を知った。そして私は脳の問題とかかわり出し、哲学者の書物を読んでみましたが、彼らは脳についての知識を全く欠いていました。 脳こそが、自分とは何か、他人とは何か、その関係はどうなるかという若い人の問いの本質に関連していると私は考え、脳について研究することに決めました。哲学者が脳についての知識を欠いていたということが、その 動機ともなっています。今でも哲学者は何も知りませんがね。そこでまず私はシェリントン注1のところに行き、奨 学金をもらい、オックスフォードで幸運にも彼らとともに、下位の中枢神経系である脊髄の研究をはじめ、神経細胞やシナプスについて学びました。その後、もっと多くのことを学び発見しなくてはならず、徐々に脊髄から 脳にうつり、学習や知覚のような基本的問題を解決しようと試みてきました。 AIJ−−−1950年代に抑制性シナプスを発見されたわけですが、当時を振り返って、学会や脳の研究の雰囲気はど んなものでしたか。 エックルス−−−実際に抑制シナプスの活動は、シェリントンによってずっと以前にみつかっていました。そして私がオックスフォードに釆たとき、彼は“Central excitatory state and central inhibitory state”とい
う論文を発表したところでした。これは興奮性と抑制性のシナプスが桔抗しながらニューロンに作用するという
概念を表わしたものです。オックスフォードにいる間、私はシェリントンと共にこの問題に取りくみました。当
時興奮及び抑制という過程が存在するのは明らかでしたが、本質的なことはわかってはいませんでした。つまり
神経細胞やインパルスという観点からは説明できなかったのです。1951年に、私は脊髄の運動ニューロンに微小
電極を挿入して細胞内記録をとり、抑制がどのようにして行なわれるのかを発見しました。抑制性シナプスは細
胞膜の電位を過分極させることによって興奮、すなわち細胞膜の電位の脱分極を相殺するのです。話はこのよう
に単純です。ニューロンは興奮性か抑制性かどちらかの性質を持ち、この2つが互いに桔抗しながら作用する。
これが神経細胞や神経経路を考える上での基礎となっています。その後抑制のイオン機構について研究がなされ、
近年はパッチクランプ法を用いることで説明されています。
AIJ−−−今考えると、脳研究でのその学問的意義は何であったと思われますか。 エックルス−−−病的な状態について、たくさんのアイディアを生み出しました。例えばてんかん発作についてで
すが、ニューロンの抑制機構の欠如によって起こる、つまり抑制性細胞が十分に活動・発火しないために起こる
と考えられています。しかし我々は別の考えを持っています。それはつまり抑制性のニューロンが軸索まで至り、
そして軸索を抑制するというものです。これは軸索軸索間抑制という特殊なものですが、それがインパルスを阻
止して、細胞の発火を抑えるということであるのがわかりました。それは伝達物質のGABAによるのです。 こ
のメカニズムの異常がてんかんにおける病的状態の主因となっていると私は思います。
AIJ−−−脳には興奮性と前抑制と後抑制という3種類のニューロン注2がありますね。しかしあなたは著書 の中で高等生物には前抑制は存在しないと述べていますが……。 エックルス−−−いや、高等なレベルには、ないということです。私にも脊髄にはシナプス前抑制がありますし、 犬や猫や猿では少なくとも下位のレベルにはシナプス前抑制がある。しかし大脳皮質や小脳にはない。それはど うやら原始的な種類の抑制に思われます。シナプス前抑制は視床まで至るが、大脳皮質や小脳などの高度に発達したものにはないのです。 AIJ−−−そういったことは進化論と関連していると思われますか。 エックルス−−−私にはわかりませんが、それはおもしろい質問です。私は今、哺乳類の脳から人間の脳への進化 についての本を書いています。脊髄にはすべての種の抑制、シナプス後抑制とシナプス前抑制がありますが、低 レベルがシナプス前抑制で、高レベルがシナプス後抑制であるということではないようです。シナプス後抑制は 細胞膜の電位の過分極を起こし、シナプス前抑制は興奮性の伝達物質の放出をある程度阻害する。低レベルには 両方のシナプスがあり、高レベルになるにつれシナプス前抑制が徐々に少なくなってシナプス後抑制にとって代 わられる、ということではないのです。 AIJ−−−脳のシナプスは3種類しかない、といっていいのでしょうか。 エックルス−−−いや、脳はそれほど単純な組織ではないのです。初期にはそう考えられていましたが、今では脳 についての知識が大幅に増えました。脳の全体的な作用組織は微細な繊維からなり、セロトニン、ノルアドレナ リン、ドーパミン、ヒスタミン、グリシンが所どころで<分泌されています。そしてこれらはシナプスのように局 所的・近接的ではなく、モジュール全体に作用して、神経細胞の振る舞いを変えるのです。したがって巨大細胞、 巨大繊維、巨大シナプスなどの全体的な作用が背後にあ>るわけです。非常に広く広がっているので、どの細胞組 織からも、詳しい情報が得られないほど分散しているのです。 例えば青斑核というノルアドレナリンを分泌する組織がありますが、これは5,000のニューロンを持ち、しか 1つのニューロンは少なくとも100万のニューロンに伝達物質を渡すのです。このように非常に広範囲にまた がったシステムの存在が知られてきており、こういう点で初期の考えから進んできているのです。 AIJ−−−脳の高次の機能については、シナプスによって多くが説明されています。例えばあなたの著書では長期 記憶は、ニューロンの可塑性で説明されているわけですね。同じ議論が他の記憶・学習についてもいえると思わ れますか。もしそうならどの程度可能でしょうか。 エックルス−−−私は小脳の記憶が専門ですが、小脳は海馬や大脳皮質などととても違います。なぜなら小脳核や 前庭核の細胞に抑制性に働く小脳のプルキンエ細胞では、長期増強ではなく長期抑制がおこるからです。長期記憶 に関連して、興奮性シナプスが変化することがわかっており、それについて我々はみなカルシウムに関心をもっ ています。細胞内カルシウムは重要な要素です。記憶の確立時にはまず初めにカルシウムがシナプス前あるいは シナプス後細胞内に流入し、そしてそれが第二の作用を開始させます。この点については、カルシウムは大脳皮 質や海馬、また小脳でも同様に作用します。ただし小脳ではカルシウムは長期抑圧と関係し、大脳皮質や海馬に おいては長期増強と関係しています。重要な点は、シナプスに持続的な変化が起こることです。それが記憶の基 礎なのです。 AIJ−−−脳はほんの数種のシナプスで構成されていますが、しかしそれにもかかわらず脳の研究は難しいと著書 の中で主張されていますね。 エックルス−−−難しいのですが、しかし不可能ではないでしょう。挑戦が必要だが、技術は非常に進歩している。 私がシェリントンのところにいたときには信じられないことが、現在にはできている。技術は私の考えているよ りずっと早く進歩しています。納得してもらえるかどうかわからないが、すごいものですよ。 |